逃げるプランを立てる: 危機の瞬間に勝手に動ける仕組み
午後5時半。 保育園のお迎えから帰る道。 息子は手をつないで歩いている。
家の鍵を回す瞬間、いつもあれが来る。 玄関を開けたら、夫はまだ仕事。 冷蔵庫を開けて何か作らなきゃ。 子供を寝かせたあと、何時間か空く。 あの何時間かのことを考えた瞬間、もう体が向き始めている。
「夫が遅い夜は危険」と知っている。 頭では分かっている。 だが、知っているだけでは足が止まらない。 3週間ぶりにスマホアプリを開いて、コンビニATMの場所を検索していた。 その日、子供を寝かせたあとパチンコ屋に行った。 帰ったのは朝4時だった。
「決意」が役に立たない瞬間がある
平静なときの決意は強い。 朝、シャワーを浴びながら「今日はやらない」と決めた自分。 昼休み、コーヒーを飲みながら「もうこんな生活は嫌だ」と思った自分。 これらは本気である。嘘ではない。
ところが、夜の家の中、子供を寝かせたあとの空白時間、夫の帰りが遅い夜。 朝に決めた自分はもう、そこにはいない。 代わりにいるのは、ブレーキ役の働きが落ちて、「やりたい」だけが強くなった脳である。
「分かっている」と「動ける」は別物である。 頭で分かっていても、体は別の方向に動く。 これは前章までで何度も書いてきた、依存症の脳の物理的な状態である。
決意の代わりに必要なのは、「考えなくても動ける仕組み」である。
if-then プランニング: 「もし X なら Y」
心理学の研究で、目標達成率を大きく上げる方法が知られている。 名前は難しいが、やることはシンプルである。
「もし X が起きたら、Y する」を事前に決めておくだけ。
これだけで、目標を達成する確率が大きく上がることが、過去30年以上の心理学研究で繰り返し示されている。 依存症だけでなく、ダイエット、運動、勉強、慢性疾患の管理など、幅広い分野で有効性が確認されている。
なぜ効くのか:
- 危機の瞬間、脳は「考える」のが苦手
- でも「自動的に動く」のは得意
- 「もし X なら Y」を事前に紐づけておくと、X が起きた瞬間に脳が Y を自動で実行する
- 「決意」が「自動」に変わる
つまり、危機の瞬間にゼロから判断しようとせず、事前にセットしておいた「条件と反応」を使う、という発想である。
ギャンブル依存の if-then の例
具体例を挙げる。
| もし(X) | こうする(Y) |
|---|---|
| もしパチンコ屋の前を通りそうになったら | 反対側の道に渡る |
| もし給料日が近づいたら | 給料日の前日に振込口座を家族口座に変える |
| もし家に一人でいる夜になったら | 19 時までに友人に LINE を1通送る |
| もし渇望が10分以上続いたら | 玄関を出て10分歩く |
| もし HALT のうち2つが揃ったら | その日は早めに寝る |
| もし子供を寝かせたあとに「あの何時間か」を考えたら | 風呂に入る |
| もしスマホでギャンブル系アプリを開きそうになったら | スマホを別の部屋に置いて居間で本を開く |
ポイントは2つ:
-
X は具体的な条件 にする
- ✗「危ないと感じたら」(曖昧)
- ✓「金曜の夜、夫の帰りが遅い日」(具体的)
-
Y は体が動く具体的な行動 にする
- ✗「気持ちを切り替える」(行動になっていない)
- ✓「玄関を出て10分歩く」(具体的)
自分の if-then を作る
ここでペンとノートを取り出す。次の手順で作る。
ステップ 1: 過去の再発のトリガーを書き出す
過去の再発を思い出して、引き金になった状況を5つ書く。 例:
- 給料日の翌日
- 夫の出張中の夜
- 仕事で大きな失敗をした日
- 子供を寝かせたあとの空白時間
- 月末の支払いが多い日
ステップ 2: それぞれに Y(行動)を決める
トリガーごとに、「そのとき何をする」を1つ決める。 できるだけ具体的に。体が動く行動で。
例:
- 給料日の翌日 → 朝、銀行アプリで引き出し限度額を 1万円に下げる
- 夫の出張中の夜 → 18時に母にビデオ通話する
- 仕事で失敗した日 → 帰り道、駅から1駅分歩く
- 子供を寝かせたあとの空白時間 → 風呂に入る + 本を1章読む
- 月末の支払いの日 → 朝、夫と家計を一緒に確認する
ステップ 3: 紙に書く
書いたものを、見える場所に置く。 冷蔵庫、トイレの壁、財布、スマホの待ち受け。 危機の瞬間に「思い出す」ではなく「見られる」場所に。
ステップ 4: 1週間ごとに見直す
1週間使ってみて、効いたもの、効かなかったものを記録する。 効かなかったものは Y を変える。
if-then が効くための条件
- X は明確であること: 「不安なとき」より「金曜の20時を過ぎたとき」のほうが効く
- Y はすぐ実行できる行動であること: 道具がいる行動はハードルが上がる
- 誰かに頼む Y の場合、相手に事前に伝えておくこと: 「もしものとき電話するかも」と一言伝えておく
- 頭の中でリハーサルすること: 平静なときに「もし X なら Y」を頭の中で何度も言ってみる
- 完璧でなくていい: 最初の1つから
HALT、安全計画との関係
ここまでの3つの章で出てきたスキルは、それぞれ役割が違う。
| スキル | 役割 |
|---|---|
| HALT(第11章) | 自分の状態を点検するセンサー |
| if-then プラン(本章) | 引き金が来た瞬間の反射的な行動 |
| 安全計画(第8章) | 危機がエスカレートしたときの最後の砦 |
3つは独立しているのではなく、組み合わせて使う。
- 普段から HALT で自分の状態を点検する
- 引き金が来たら if-then で自動的に動く
- それでもダメなら安全計画を発動する
if-then が効かない瞬間もある
正直に書くと、if-then が効かない瞬間もある。 特に強い渇望や、複数の引き金が重なった日は、計画通りに動けないことがある。
そのとき:
- 自分を責めない
- 「効かなかった」事実を記録する
- 計画を細かく見直す
- 「次はこうする」と更新する
if-then は完璧な防具ではない。 だが、何もないより遥かに強い。 何もない状態で危機の瞬間に立つのと、書いたプランがある状態で立つのとでは、結果が違うことが多い。
参考文献
- Gollwitzer, P.M. (1999). Implementation intentions: Strong effects of simple plans. American Psychologist, 54(7), 493-503.
- Gollwitzer, P.M., & Sheeran, P. (2006). Implementation intentions and goal achievement: A meta-analysis of effects and processes. Advances in Experimental Social Psychology, 38, 69-119.
- Webb, T.L., & Sheeran, P. (2006). Does changing behavioral intentions engender behavior change? A meta-analysis of the experimental evidence. Psychological Bulletin, 132(2), 249-268.
- Marlatt, G.A., & Donovan, D.M. (Eds.) (2005). Relapse Prevention: Maintenance Strategies in the Treatment of Addictive Behaviors (2nd ed.). Guilford Press.
- Adriaanse, M.A., Vinkers, C.D.W., De Ridder, D.T.D., Hox, J.J., & De Wit, J.B.F. (2011). Do implementation intentions help to eat a healthy diet? A systematic review and meta-analysis of the empirical evidence. Appetite, 56(1), 183-193.