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全体像と緊急対処 いま、動き出す 第9章

渇望の正体と乗り越え方

土曜の朝10時。スマホに通知が来る。 「中央競馬 第1レース、まもなく発走」 削除し忘れたアプリの音だ。 親指が反射的にタップしている。 画面が開く。心拍が一拍早くなる。 「どうせ買わない、見るだけ」と頭で言いながら、オッズの画面までスクロールしている。 気がつくと第1レースの3連単を3,000円買っていた。 3日前に「もうやめる」と決めたばかりだった。

これが渇望である。 やめると決めた人ほど、強くやってくる。 本人の意志とは別の場所から、勝手にやってくる。


渇望とは何か

渇望は、きっかけに反応してドーパミン(前章までで言うアクセル役)が急に放出される状態である。 ギャンブル依存の脳ではこの反応が暴走しやすく、わずかなきっかけで強く起きる。

体に現れるサインはおおよそ決まっている。

  • 首の後ろや胸が熱くなる
  • 心拍数が上がる
  • 口の中が渇く
  • 手のひらに汗をかく
  • 呼吸が浅くなる
  • 視野が狭くなる

頭の中では「正当化」が湧いてくる。

  • 「今日くらいなら」
  • 「一回だけならいい」
  • 「軍資金をもう一度試したいだけだ」
  • 「今夜やればきっと取り戻せる」

これらはすべて、本人の意志とは関係なく、脳が自動的に生み出す反応である。意志が弱いから出てくるのではない。長年の条件づけで脳に組み込まれた反射である。


渇望は必ず終わる

渇望でいちばん大事なのは、渇望は必ず終わるということである。

渇望は波のような形をしている。

  1. 何かのきっかけで始まる
  2. 強くなる
  3. ピークに達する
  4. 弱くなる
  5. 消える

ピークまでの時間はおおよそ数分から15分。完全に消えるまではおおよそ20〜30分。これは複数の研究で示されているパターンである。

何かしなくても、待っているだけで波は引く。 ただし、ほとんどの人は「待っているだけ」ができない。途中で「もう無理」と感じて行動に出てしまう。

だから、波に「対処する」のではなく、波を「観察する」スキルが必要になる。


観察する: 渇望サーフィン

渇望サーフィンは1980年代にアメリカで提唱された方法である。マインドフルネス系の再発予防プログラムで広く使われている。

やり方はシンプル。

  1. 来た、と認める 渇望が来たことに気づく。「あ、来たな」と頭の中で言葉にする。 抑え込もうとしない。追い払おうとしない。

  2. 体の感覚を観察する 首の後ろが熱い。心臓が早い。手のひらに汗が出ている。 一つずつ、ラベリングする。

  3. 波だと思って眺める 「いま、強い」「ピークが近い」「ピーク」「弱くなってきた」「引いている」 観察する側に立つ。波そのものにはならない。

  4. 時計を見る ピークまで5分か10分。完全に消えるまで20分か30分。 時計を見ながら待つことで、「終わりがある」ことが体感できる。

最初は難しい。観察する側に立とうとしても、すぐに波に飲み込まれる。 でも練習を重ねると、波を眺める自分が育ってくる。

「我慢」ではなく「観察」。これが渇望サーフィンの核である。


五感に戻る: 5-4-3-2-1 グラウンディング

渇望が強すぎて観察どころではないとき、もう一つの基本スキルがある。 5-4-3-2-1 グラウンディングと呼ばれるもので、不安発作や強い渇望のときに使われる。

やり方:

  1. 見えるものを5つ、声に出すか頭の中で言う。「壁、ポスター、自動販売機、人の靴、自分の影」
  2. 聞こえる音を4つ。「車の音、誰かの話し声、電車のアナウンス、自分の呼吸」
  3. 触れているものを3つ。「シャツの感触、靴の中の足、手に持っているスマホ」
  4. 匂いを2つ。「街の匂い、自分の服の匂い」
  5. 味を1つ。「口の中に残っている、さっきの飲み物の味」

終わったら、もう一度繰り返してもいい。 これは脳の注意を「過去の体験(パチンコ)」「未来の妄想(取り戻す)」から「今ここの五感」に強制的に切り替えるテクニックである。

不安症の治療や PTSD のケアでも使われている。確実な根拠があるわけではないが、副作用がなく、いつでもどこでもできる。


物理的に対処する: 緊急時の最小スキル

観察やグラウンディングをやる余裕すらないとき、もっと粗いスキルがある。

その場から物理的に離れる

これが最強の方法である。 パチンコ屋の前なら、反対方向に歩き出す。 家のスマホでオンラインカジノの画面を開きそうなら、スマホを別の部屋に置いて自分は外に出る。

距離が空くと、きっかけが消える。きっかけが消えると、波が弱くなる。 脳の物理的な反応に対して、物理的な対処をするのが一番速い。

誰かに電話する

声に出して話すと、脳の働きが切り替わる。 内容は何でもいい。「いま渇望が来ている」と言ってもいいし、別の話題でもいい。 重要なのは、孤独な状態から「会話している状態」に切り替わることである。

電話する相手は事前に決めておく。渇望の最中に「誰に電話しよう」と考えるのは難しい。

強い感覚を入れる

身体に強い感覚を入れると、注意がそちらに向く。 冷水で顔を洗う、氷を握る、強いミントのガムを噛む、刺激的な香りを嗅ぐ。 一時しのぎだが、波のピークをやり過ごすには十分役立つ。


やってはいけないこと

渇望には、やると逆効果になる対処がある。

抑え込もうとする

「考えるな」と自分に言い聞かせるほど、その考えは強くなる。これは「シロクマ効果」として知られている心理現象である。「シロクマのことを考えるな」と言われると、シロクマが頭から離れなくなる。 渇望を「ない」ことにしようとすると、リバウンドして強く戻ってくる。 だから観察するしかない。

一人で耐え続ける

「自分の力で耐え抜く」発想は、長期的には消耗する。 渇望は何度もやってくる。1回だけ耐えればいいわけではない。 人に頼る方法、物理的に離れる方法、時間で過ごす方法を組み合わせる。 「自力で耐える」を選び続けると、いつか限界が来て一気に崩れる。

「もう来ないでくれ」と祈る

渇望はやめた人ほど来る。完全になくなるまでには時間がかかる。 「来ないでほしい」と願うより、「来ても大丈夫な準備をしておく」方が現実的である。


参考文献
  • Marlatt, G.A., & Gordon, J.R. (Eds.) (1985). Relapse Prevention: Maintenance Strategies in the Treatment of Addictive Behaviors. Guilford Press.
  • Bowen, S., Chawla, N., & Marlatt, G.A. (2010). Mindfulness-Based Relapse Prevention for Addictive Behaviors: A Clinician’s Guide. Guilford Press.
  • Witkiewitz, K., Marlatt, G.A., & Walker, D. (2005). Mindfulness-based relapse prevention for alcohol and substance use disorders. Journal of Cognitive Psychotherapy, 19(3), 211-228.
  • Tiffany, S.T., & Wray, J.M. (2012). The clinical significance of drug craving. Annals of the New York Academy of Sciences, 1248(1), 1-17.
  • Wegner, D.M. (1989). White Bears and Other Unwanted Thoughts. Viking Press.
  • Najavits, L.M. (2002). Seeking Safety: A Treatment Manual for PTSD and Substance Abuse. Guilford Press.
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